
山桜が
山のなかで新緑にかわって
ソメイヨシノの
はなふぶきが降りおわって
いまは
八重桜が
ぼんぼんしている
自転車でそのよこを
花のトンネルを通りぬけるとき
ぼんぼん
と口に出していうと妙にしっくりとくる。
可愛らしく
豪奢な花弁のかたまりは
そのはなふぶきもまた
豪快で、愉しみ。
圧倒的なはるのなかから
初夏へ
うごいてく
さて
この四月のはじめには
わたしの人生にとって
ひとつ
おおきな出来事があった
15年間ともに暮らした娘が
高校進学とともに
はなれてくらす、こととなった。
中一のころから方々の
学校をみてあるいて
じぶんが、この先、どこで学びたいのかを
彼女なりに
あたまとこころ、からだぜんぶで
感じたりかんがえたりまよったりしたさいごに
すっきりと迷いなく
きめたこと
だったので
それははればれと
送り出すことにした。
その先がどんなふうなのか
それにともなう淋しさについては
想像しないことにした。
わたしも、きっと
もしかしたらかのじょも。
ま、のこされたものの淋しさのほうがたいていの場合
大きいのであろうけれども
それはもう
どんとこい
どうにかなる。
どうにかする。
春休み
のこりわずかの一緒の日々を
わたしは
はずかしいけれど
花の蜜を吸うように
だいじに
だいじに
暮らした。
そのわりには
喧嘩もしたけれど
それもまあふくめて
だいじにした。
愚かな母なりに。
最後の日の夕飯は
これをつくればおわってしまうと
意識でなくおそらくもっと深いものがおもってそれを
拒否しようとする不思議な自分をみた。
二階のむすめには気づかれないように
がんばって立って、
なんどもしゃがみ込みながら
泣きながらつくった
いやきっとそれも
気がついていたかしら。
わたしは
ふだんからむすめむすめと
むすめの話ばかりするほど
おそらく結構な親ばかである。
小さいころから自分の自慢話みたいにきこえそうなことは
どうにも歯がゆくてはずかしくって
過剰にそれをできないようなところがあるけれど
(それはきっと、自意識が過剰なためかもしれない)
なぜなのか
むすめのことは
べらべら
その変なフィルターをとおさずに
そのまま喋れる。
だからばあいによっては
娘の自慢ばかりして、と
おもうひともあったかもしれない。
ごめんなさい。
わたしにとっては
生きるささえであった
ひよわなこころと精神が
この地上に
とどまっていられるために
彼女がそれを
ずっとたすけていてくれたのだ
と
わたしはおもう。
でも
わたしも
もうひとりで
たたなくっちゃ。
おいおい、
親でしょあんた
というこえが聴こえてきそうであるが
めんぼくない。
そうわたしは
そういう
だめーな母親なのである。
春休み
むすめと
映画をみにいった。
それは期待したほどのものではなかったのだけれど
すべてのエンドロールが巻き上って一呼吸したところで
お互いに顔を見合わせて、
さていきましょうかと席をたとうとしたとき
この座席につづく列の端っこの席ふたつが
びっくりするくらいに
散らかしてままあった。
そこについ先ほどまでいたカップルの食べ散らかした
飲み物やポップコーンやらのゴミがそのままで
座席をちょっとふかふかに高くするためのクッションが
そのまんま
というより派手に
投げ散らかされている
(このクッションはセルフサービスで使うので、
帰りは自分で返却するものだとおもうのだがどうだろうか)
わー
とおもって
また互い顔を見合わせて、
さてやれやれいきましょうかと
歩き出したんだけど
むすめが無言でささっと
そのクッションをふたつつかんで
あるいていった。
正直わたしはさっき
わー
とはおもったけれど
まさかその尻拭いをわたしたちがやるなんてことは
考えなかった。
恥ずかしながら。
だからそのさらっと
やってやっている、でも
やらされている、でもなく
あたりまえみたいに自然に
それをしていく自分の娘に一瞬
おどろいた。
で、わたしはそのあとを
あわてて
食べかすのごみをあつめて外に出た。
そうか
こんなにかんたんに
解決しちゃうんだ
と
びっくりした。
ほれぼれした。
はればれした。
いまは立ち去って無き、若き男女に
劇場のひとをなんだとおもっとんねん
と
おもったわたしは
ではそれを自分が片付ける
というシンプルな思考ができなかった。
それをこの15歳の子は
ささっとやってのける
えらそうでも
いやそうでもなく
ごく自然にそうする。
ああもう
この子はだいじょうぶ
送り出しても大丈夫、と
ふかいところが、おもった。
この子たちが
つくっていくせかいは
きっと
すばらしいにちがいない。
この子たちからまなぶのは
わたしたちだ
そう
ほんとうに
おもう
いってらっしゃい
愛しています
いつでも
いつも
どんなときでも
どこにいても
ここで
あいしているからね

むすめ
15歳となる
そういえば
一見、おとななみにおおきくなった
わけで
それはつまり
こんなわたしが 母 というものになって
15年
ということになる。
ちっともすばらしい母でないので
とりあえず謝る
そして
そんなわたしの傍らに
誰よりも近くにこれまで
そう、15年間
ともにいてくれて
ありがとう
ここへきてくれて
ありがとう
と伝える
わたしのことばは
いつもまあ同じようなことで
だからむすめには
ちっともぴんとこないのじゃないかとおもうのだけど
いつか
わたしがいなくなったときにふと
思い出して
すこしでもそれが
なにか、心をささえたり
あたためるものだといいなとおもう
ほんのすこしでも
おもうというか願う
ねがうというか祈る
それよりもっと
おもうのは
ねがうのは
いのることは
きみが
きみらしく
いちばんにのぞむことを
えらんで
そして
なにからもほんとうのいみで
自由
であってほしい
ということ
いつでも
どこでも
これからさき
もっともっと
このせかいにたったひとり
一度きりの
この人生なのだから
おもいきり
やったらんと
もったいないがな
びくびくも
きょろきょろも
おそれも
不安も
ためらいも
おさえることも
なんにも
必要ないんだよ
あふれるまんまに
そこにそう
すなおにそのままあればいい
その自由を
誰しもがきっと
もっている
そうそれは
わたし
もおなじなんだ
さあ、
お誕生日
おめでとう
あいしているから
おもいきり
生きなさい

一昨夜、
とうとう
マシュウ氏がしんでしまった。
本好きの娘の愛読書のひとつが
「赤毛のアン」で、
娘はそれをくりかえし、くりかえし読んでいる。
彼女が眠るとき、
その枕もとで私はいつも本を読んで聞かせるのだけれど
ふと、
この冬はこの本を一章ずつ、読んでいた。
ここにでてくる マシュウ伯父さん という人が
私はとても好きで、
「そうさな…、」
という語り口でぽつぽつ、話す彼のセリフをいつも
大切に声に出して読んでいた。
ふと先日、
ずっと先だと思っていた彼の死が
この一冊の本の中で起こるということを娘からきいて
(アンシリーズは「アンの青春」「アンの愛情」…と続くのだ)
以来、
それがやってくるのがこわかった。
毎夜、
びくびくしながら字を目で追った。
そのマシュウが
とうとう死んでしまう。
一昨晩は娘にせがまれて、
一気に3つの章を読むことになったのだけれど
この終いの章のはじめから終わりまで
私はずっと泣きっぱなしであった。
今、こうしてここに書いていてさえ、
目の前がにじむ。
鼻をすすって、
声を震わせながら読む私のとなりで
娘はしきりに私の涙を拭いた。
声がひっくりかえって、
嗚咽しながら読む私の涙を
タオルでひたひたと、
ぬぐい続けながら聞いていた。
私がこれほどまでに泣くものだから、
彼女はその世話に追われて
自分が泣くどころではなかっただろう。
読み終えて、
また泣きだした私に
むすめは言った。
ママ
ひとはいつか、みんなしぬんだよ
ずっとずっとは、生きられないんだよ、と。
マシュウが死んでしまって、
でもそれでアンは、ギルバートと結婚することに
なったんだよ。
だから、かなしいことばかりじゃない
それに、また生まれ変わるんだから
と。
そうして
星はなぜ光るのか知っているか、と
むすめはいった。
それはね
天国の光がこっちに、もれているからなんだよ
天国は光で満ちているのだから、心配しなくていいんだ
と、
彼女はいった。
それが、
娘がこれまでに読んだたくさんの本の中で
おぼえたことなのか
また、
どこかで聞いてきた話なのか
また、
彼女自身の想像で生まれてきた事柄なのか
はたまた、
彼女が生まれながらにして知っていたことだったのか
私は知らない。
むすめはいつも私より
道の先を歩いているような気がする
大切なものも、いつか消えてなくなる。
それでも世界は続いてゆく。
わたしたちはそんな中に生まれ、
生きて、ゆくのだ。
それはきっとかなしいことではない
ただ、そこにあること
そうしてすべてはめぐり、めぐっている。
んだね
わかってはいてもやはり、かなしいとおもう自分の涙を
娘にぬぐってもらっている
それは実に、
情けないことであるけれど
文字と言葉をまだ
背負わずにいた頃から、
いつのまにかたったひとりで
抱えきれない数の本を読むようになった今も、
娘のとなりで
本の読めることを
とても
幸福におもう。

いよいよ夏本番である。
朝、セミの鳴き声で目が覚めた。
先日、仕事の帰りが予定より遅くなった。
取材を終え、電車に飛び乗ったのが19時すぎ、
都内から家まで
ひとっぱしりに走っても、帰り着いたのは21時前だった。
21時と言ったらあなた、娘を布団へ入れる時間。
通常、こんなことはありえない。
以前なら、近所に住む父母に応援を頼んでいたし、
少々離れた地へ引っ越してからは
どんなに遅くても夕飯までには帰宅するようにしている。
それがふいに、思いもよらずの事態。
電話をかけると、大丈夫、と気丈にも娘はいう。
冷凍庫にある、先日肉屋で買った肉まんをあたためて食べるという。
それからコロッケ、トマト、グレープフルーツのゼリーも食べていい?
むろん、いいに決まっている。
ほんとうにごめんね、食べたらお風呂に入れる?ときくと
うん、入る、とこたえる。
乗り換え時、ふたたび電話をかけると
「ごはん食べたり、買ったりしないできてね」
などという。
もちろんとんでかえる、とわたし。
わが家は古く、日が暮れると大人ひとりでいても薄ら怖いのである。
すっかり時計も21時を指そうという頃、わたしはようやくがちゃがちゃと玄関の鍵をあけた。
すると、
風呂上りにすこしおめかしをした娘がおかえり、といってとんできて
促されるまま進んだちゃぶ台の上には、
湯気をたてたカレー、きれいに切られたトマト、
かりっと両面を焼いたコロッケ、硝子に盛った小さなゼリー、
水滴をつけた水のコップ、が並んでいた。
カレーは先日母が作り置いていってくれた残り、
ごはんは娘が土鍋で炊いたのである。
きけば驚くほど自己流の炊き方だったけれど、
つやつやと光って見事な白飯だった。
普段は本ばかり読んで台所にあまり立たない娘。
10年って歳月は、こんなにもひとを成長させるのである。
その夜、いつもは一章分のところ
娘の眠るまで本を読んできかせることにした。
こわくて髪は洗わなかった、という頭てっぺんの、
娘の匂いを吸い込む。
近頃は彼女のリクエストで毎夜、赤毛のアン
「アンの夢の家」を読んでいる。
もうすぐ夏休みがくる。

本日、終業式をおえてむすめ、
4月からは5年生となる。
担任の先生が退職されるというので
ひとり1枚ずつ、割り振られた月のカレンダーを綴って
贈ることに。
娘の担当は来年の7月。
彼女いわく、7月といえば星空
ということで夏の星座
デネブ、ベガ、アルタイル
先日、誕生日祝いにと友人からいただいたオイルパステルが大活躍。
こんなふうに、わしわしとむすめ
おおきくなってゆくも、
大変におもしろい。
出掛けた先で眠ってしまえば、
まだまだおぶって帰ることができる。
薄目をあけて、きゅっと抱きつくので
降ろさずに家まで帰る。
御年10歳。
花粉に悩まされつつも、沈丁花かぐわしい春
ひょいひょいとはしりまわる。
これからもどうぞ、よろしくどうぞ。

夏休み
あっという間に終わろうとしています。
はやいよなあ。
残すところもあとわずか。
今日は娘っこが夏休みの工作を仕上げていました。
彼女が選ぶのはいつでも工作、自由研究には目もくれません。
さて
うちの娘は、ひょっとした隙があれば
なにか作っているようなところがあります。
人形の服、鞄、寝床や家具、
お人形同士の小さな手紙、
切り絵、押し花を挟んだ栞、
拾ってきた棒切れにリボンをぐるぐる巻きにした
魔法のステッキらしきもの…。
そんな娘がこの頃、朝も昼も読みふけっているのが
「長靴下のピッピ」。
夏休みのはじめに図書館で借りてきて以来、
くりかえしくりかえし、夢中で読んでいます。
私も眠る前に1章分、読んで聞かせるのだけど
これがまったくほんとうに面白くて
笑い転げたり、嗚咽したりでまともに声が出なくなるほど
すてき。
つまらない大人にだけはならないようにしよう
いや、なってはいまいか
と、
私は自分への戒めにもなってすごくいい。
強くて、いぢ悪にも悪党にもひるまず
まっすぐにそれをひっくりかえしてしまう。
純粋さと、優しさと、好奇心とユーモアばかりがある。
誰かと比べて恥ずかしがったり、うらやましがったりもしない。
誇り高く、自分自身である。
ピッピにあこがれている娘。
「そりゃあまったく〜だわ」
「そんなら、〜しちまえばいいのよ」
と、ピッピ口調が大流行のわが家、この夏であります。

たんぽぽを摘んで
茎の、
両側をいくつかに裂いて
水につけると
くるくる
になる。
ちいさなころ
この変化をなぜか
天ぷら
とよんで、
汲んだ水を油にみたてて
天ぷら屋さんごっこ
をしたりした。
そういえばと娘に、
てんぷらしってる?
ときくと
しらない、というので先日
庭のそこらへんに咲くたんぽぽを摘んできて
ままごとをした。
黄色い花びらは
色ごはん。
ハムスターは走ってきて、
むしゃむしゃといろごはんをたべた。
よもぎ、
からすエンドウ、
スギナはサラダ
草花遊びは
たのしい。
浜岡原発全炉停止。
この決断を、うれしくおもう。
これにとどまらぬうねりを
つくるのはわたしたち
おとなのしごとであるとおもう。
土や、空気や、水や植物
それらからちょんぎられては
私たちは生きてゆかれないのだから。