
わが家の庭は伸びほうだい。
あらゆる植物が風にゆれている。
今はドクダミが花盛り、
名の知れぬ紫のこまごました花をつけた凛々しい草は
昨年より格段にその数と身長を伸ばして立っている。
これが進化なのか土の栄養がよろしいのか何の影響か
しらないけれど、
わたしはこの風景をあいしている。
春のはじめ、
小さな草があちこちに小さく出現し始める。
草をひくならこのタイミングが絶好であるそうである。
若い芽は早いうちに摘め、である。
しかしどうにもためらわれる
だってこれ、何になるかわかんないんだもの。
雑草、なんてひとからげにして呼ばれる草たちであるが
ぞれぞれ、葉も異なれば異なる花を咲かせ
それがなんとも可愛らしかったりする。
わたしはこの庭にきてまだ2年目の新参者、ゆえに何が生えるのか知らない。
成長すればしたで可愛らしいもんだから、生えたまんまにしておく。
カラスエンドウにびっちりのアブラームシがついていた春先も、
母は早うあれをなんとかしなさいと言っていたけれど
みたところ、
アビラームシはカラスエンドウに首ったけ、ルッコラや青梗菜には目もくれない。
だからかまわないじゃないかと放っておいた。
春、深まるにつれ庭をとおって家へ続く小さな道は草がわさわさし始める。
目の前の駐車場は草で一杯。
儚げだったヨモギもいつのまにか大木、スギナが風にゆれている。
人にいわせれば草ぼーぼー、なかなかひどい有様である。
わたしは娘の友達が家へ遊びに来るにつけ、
学校で「草むすめ」とかなんとか
家のことを「草化け屋敷」とかなんとか
言われて娘は苦労するんじゃないかしらと内心おののいたり、
家庭訪問でやってきなさる先生に、とりあえず少しでも常識人めいたところをみせるべく
雑草を引っこ抜いたほうがいいんじゃないかしらなどという
よこしまな考えが頭をよぎったりしていた。
しかし先日、親しい人と連れ立って
「牧野記念庭園」を訪れた。
牧野富太郎が亡くなるまで住み暮らした家の庭が残された場所である。
駅からの道々、どこじゃいなと歩いていると
明らかに木の勢いが他と異なる一角があった。
むろん、そこであり、木々はもうほんとうにのびのびとしていた。
彼の庭は生前、草だらけだったそうである。

そんなわけでわたしは
確かな確信をもって庭の草はのばしておく。
少々の野菜を育てるため、そこいらの草を抜くこともあるし
中には2つ3つ、申し訳ないがこれは抜こうと決めている草もある。
部屋のあちこちには
庭で摘んだ草花を挿す。
スギナとドクダミはお茶にするためにお日様に当てて干してみている。
そろそろ、
いつかのこぼれ種で紫蘇が勝手に生えてくる頃である。
政府のわけのわからぬ勢いでもって押し進めようとする
大飯原発の再稼働
むろん、わたしは大声であほかといいたい。

啓蟄をすぎて、
なるほど土のあちらこちらで
虫が動いているのをみる。
むすめとでかけようとして、
あ、
と叫んで指差すちいさな先をみれば
赤いつるつるにてんてん、
テントウムシがあるいていた。
春でございます。
先日、この詩を朗読するのをきいた。
・・・
「われは草なり」 高見順
われは草なり 伸びんとす
伸びられるとき 伸びんとす
伸びられぬ日は 伸びぬなり
伸びられる日は 伸びるなり
われは草なり 緑なり
全身すべて 緑なり
毎年かはらず 緑なり
緑の己に あきぬなり
われは草なり 緑なり
緑の深きを 願ふなり
ああ生きる日の 美しき
ああ生きる日の 楽しさよ
われは草なり 生きんとす
草の命を 生きんとす
・・・・
いつだったか、学校の教科書で習った記憶がある。
あんまりによい詩なので
あらためてノートに書きつけて、
なにかにつけ、
口に出してみている。

12月
庭に、麦の種をまいた。
どこにまいたのだかわからなくなって
じゃかじゃか踏んづけたりしないように、
浜辺からひきずってきた流木でなんとなく囲いにする。
土をかけ、
最初の水をまいて、
おもむろにむすめ、
さつきさんメイさんが行うドングリの芽でろ、の
まじないの舞を踊りはじめるので、
わたしもとなりで
んむむむーーーん、ぱっ
を数度とやる。
さてそのかいあってか、
芽が生えた。
緑の先っぽをしゃらんと触っては、
話しかける。
出かけるときには、「いってきます」。
春にはこの麦を挽いてパンにする。
茎でもってヒンメリをこしらえる。
そんな、心づもりでいるのである。
おそらく
ここの土も以前の状態とは変わってしまった。
なにが正しいだの
なにが正義だのというものは
ますます、
ひとつではないのであろうと
3.11をひとつの境にしておもう。
それぞれが、
それそれの中心の指し示すところで
判断してゆくしかないのだろう。
あふれかえる情報をつぶさに収集、解析、整理してみたとて
頼るのは結局、自分自身の感覚なんじゃないかとおもう。
未来を、保証するものはなく
リスクを、完全に回避することは皆無
そのことがより、
はっきりと見えるようになったともいえる。
直感にしたがって
今日の日、ひとつひとつを
大切に、潔く生ききればよい
わたしはそんな単純なところに思い至る。
そんなことをいいながら、もしかしたら
極めて長寿なのかもしれないし、明日ゆかないともいえない。
わたしはそれはどちらでもいいと
おもっている。
たいようや、みず、だいち、つき、しょくぶつ、
それらとつながっていさえすれば
やってくるものを
うけて、
ゆくだけなのだ。

大地がこれらを下さいました
太陽がこれらを実らせました
あいする太陽
あいする大地
わたしたちはけして、忘れはいたしません
・・・・・・・
これは
娘の通うシュタイナー学校(土曜クラス)で教わった
食事前の、お祈りのことば。
ちゃぶ台に並んだごはんを前にして
てのひらを合わせ
この言葉をとなえてから、
「いただきます」
をする。
福島の原発事故以来、
この言葉は心にしみる。
以前はもっと形式的に、
口元をすりぬけていったこの言葉たちが
胸にささって
毎度、じんわりと目の前がにじむ。
けしてわすれません
そう誓って、
ごはんをたべる。
いのちのかたまりを咀嚼して
たべる。
わたしたちはほんとうのところ
なんにも創れない
なに、すべていただきもので生きている。
写るのは、庭のズッキーニ。
今年は地植えのきゅうりが、ぼんぼんとれる。

まだひょろひょろのピーマンの苗に
ある日からたくさんのカメムシがついていた。
あんまりたわわについているので
近所の花屋さんに相談したら、
「焼酎に唐辛子をつけたものを薄めて霧吹きでかけるとよいですよ」
と教えてくれた。
「でもね、毎日やらないとだめです」
という。
ずっとずっとですか?
ときけば、
「茎が太くなればこなくなりますから、それまで」
という。
早速、うちにかえって
しゅっしゅ、とやってみればたしかに
おどろいたようにざわざわと彼らは移動をはじめる。
しかしなにせ、
茎にびっしりのカメムシである。
中には度胸の座ったカメ氏もいる。
そういうのはしかたないので指ではらう。
しかしみなすぐに戻ってきて、
持ち場の茎にしがみついている。
指でもってぴんぴん、とカメムシをはじく。
「 ほらーあちらにたくさん草がはえとるでしょうー
あっちへぜひおゆきなさいよー」
なんてことを言われながら、
ぽろぽろと虫たちは落ちて
身体と同じ色をした土の上をあわててかけてゆく。
ま、すぐにもどってくるの、あたしゃ知っているけれどね。
正直にいうと、ある日
あんまりに霧吹きじゃなんともならないので
あたまにきて
カメムシたちにシャベルをあてた。
じゃくじゃく、
息の根をとめていたら、
ひどく、気分が落ち込んでしまった。
後味がわるくて、もやもやする。
だいたい、こんなにたくさんの命をあやめてまで
わたしはピーマンを食いたいんだろうか
と考える。
それ以来、カメムシをあやめるのはやめた。
そうしている間にピーマンの茎は立派に太って、
今じゃカメムシもこないのである。
そうして、実がみのった。
そんな日々である。

引っ越しをしてまもなく、
役場へいって
「キエーロ」
を購入した。
キエーロ
というのは
生ごみ処理機のことで、
その仕組みはというと
なんてことない、ただの木枠。
ねこさまなどよけのための、ふたつき。
これをただ庭におき、
土をいれて、
穴をほって生ごみをいれて、
土とよくまぜて、
乾いた土をかぶせる、だけ。
3、4日に一度くらいのペースでこれを
6箇所くらいにわけて
順繰りに埋めてゆくと、
ひとめぐりするころにはほぼ
生ごみは土に還っている、ということである。
すてき。
これは導入に町から補助がでるため、
たったの千円。
電気もなにもいらぬ、
ただ土と、お日さまのひかりだけでよいのである。
おかげでごみの量がぐっと減った。
生ごみは限りなくゼロ、に近い。
そんでもって肥えた土は、畑にまこうとおもう。
キエーロさまさまの、
日々である。

今年のにちようびは
よく、
父と田んぼに通いました。
昨年退職した父を誘って
谷戸学校という
年間プログラムを受講中。
ほっかむりをして
田植え、草取り、稲刈り、脱穀
元気なおじさんたちの中で
大根も植えたし、かかしもつくった。
正直身体はくたびれるけれども
なんなんだか
内が元気になってゆくのだ。
さて先日、はじめて
間伐というものをした。
実際
空にむかって生える木にのこぎりを入れて、
めりめりと
いっぺんに倒れてゆく姿をみたら
こまったことに
涙がでた。
生える木々の中から
あなたを切る
と決めたのはこちら、人間である。
「間伐は森にとってよいことだ」
むろんそのとおりなのだ。
ただきっと、
切られる木は痛いだろうね。
だからなんだということはないんだけれど
経験してはじめて
そんなことを、おもった。
せめて
この気持ちはわすれずにおきましょう、と。