
まだひょろひょろのピーマンの苗に
ある日からたくさんのカメムシがついていた。
あんまりたわわについているので
近所の花屋さんに相談したら、
「焼酎に唐辛子をつけたものを薄めて霧吹きでかけるとよいですよ」
と教えてくれた。
「でもね、毎日やらないとだめです」
という。
ずっとずっとですか?
ときけば、
「茎が太くなればこなくなりますから、それまで」
という。
早速、うちにかえって
しゅっしゅ、とやってみればたしかに
おどろいたようにざわざわと彼らは移動をはじめる。
しかしなにせ、
茎にびっしりのカメムシである。
中には度胸の座ったカメ氏もいる。
そういうのはしかたないので指ではらう。
しかしみなすぐに戻ってきて、
持ち場の茎にしがみついている。
指でもってぴんぴん、とカメムシをはじく。
「 ほらーあちらにたくさん草がはえとるでしょうー
あっちへぜひおゆきなさいよー」
なんてことを言われながら、
ぽろぽろと虫たちは落ちて
身体と同じ色をした土の上をあわててかけてゆく。
ま、すぐにもどってくるの、あたしゃ知っているけれどね。
正直にいうと、ある日
あんまりに霧吹きじゃなんともならないので
あたまにきて
カメムシたちにシャベルをあてた。
じゃくじゃく、
息の根をとめていたら、
ひどく、気分が落ち込んでしまった。
後味がわるくて、もやもやする。
だいたい、こんなにたくさんの命をあやめてまで
わたしはピーマンを食いたいんだろうか
と考える。
それ以来、カメムシをあやめるのはやめた。
そうしている間にピーマンの茎は立派に太って、
今じゃカメムシもこないのである。
そうして、実がみのった。
そんな日々である。

先日、気になっていた映画をみました。
「100,000年後の安全」
マイケル・マドセン 監督
10万年。
というと
今からさかのぼればネアンデルタール人などが
地球上にいた頃にあたるのだという。
ではいまから10万年後
この地球はどんなふうだか。
たとえば人間はいるのかしら、ということさえ
まったくだれにもわからない
未知のこと。
さて今、こうしている間にも
稼動している原子力発電所からは刻々と日々
高レベル放射性廃棄物がうまれ続けている
大量に。
それらが危険でなくなるのは
10万年先。
「地層深くに埋めるからだいじょうぶ」
なんていうお気楽なCMや広告をみたことがあるけれど
実際のとこ
だいじょうぶだなんてだれも本気で思えないから
いまだ埋め場所も決まらず
行き着く先を宙ぶらりんにしたまま
この国は
原発をつくり、動き、増え続けてきた。
お金をあげるからどう?と地方にちらつかせて
候補地を募り続けている。
この事故をうけてもなお
原発は必要だと言い張る人々もいらっしゃる。
そんな仕組みを長々と作ってきたのはどちらの政党だったかということも
忘れないでいただきたい。
さて映画は世界で初めて
その永久地層処理場の建設が決定し
現在も建設中
フィンランド・オルキルオトの
ドキュメンタリー。
ここでは施設が完成した後、
遠い未来
10万年先まで
ここは危険だから絶対に触れないように
掘り返さないように、
どうやって伝えればよいのか、という現実に向き合う。
言語は通じるのか?
好奇心を刺激しないか?
誰も答えを持ち得ず
まるで賭けでしかない。
だって私たちは古代の遺跡を発掘し
その意味を解明できずにいるのだから。
こんな無責任でこわいことを、
私たちはしているのだと知る。
一体何と引き換えに、
私たちは原子力を使うのかをみる。
原子力にはしりだしてしまった人間
は
くるってましたね
とわたしはおもう。
事故後の応対の悪さはあったにしろ
ようやく目が覚めたように
浜岡の原発を止め、
自然エネルギー推進や
発送電線分離などを声高に唱えだした途端、
首相を引きづりおろそうと躍起になっている大人たちをみていると
かなしくなってきて、
まかせてはおけない。
この国はどこへゆくのか
全員に訊いて見たらいい
イタリアのように。
この映画、よければ
ぜひみてみてください。

私には大切な知人がいて
そのひとの故郷は
福島県の
新たに計画的避難区域に指定されるかもしれぬ
というところにある。
まだみたこともない
その故郷がとても豊かで美しいことは
そのひとをみればわかる。
目にみた景色、
すいこんだ草いきれ、
手足ひたした水、
耳にした山のはなしごえ、
つつんでは通り抜けていった風の
ひとつひとつは、深い深いところの
その人となりをつくる。
わたしは
いつか
そのひとの駆け抜けた自転車みちが
よもぎを摘んだはらっぱが
音をたてて流れた川水が
学校へあるいた道が
いまも父母の吸うそこらじゅうの空気が
刻々と、みえないもので
汚されてゆくのがかなしい。
とても、かなしい。
こういう事実と引き換えに必要な
豊かさや
贅沢や便利
経済なんてくそくらえだ、
とわたしは心の底からおもう。
ここまできて、
この収拾のつかぬ事態の中で
「反原発はヒステリー」
などといえるだろうか。
なおも、
原発による恩恵から手を離したくないひとびと
は
しっかりとみてほしい。
福島で今起きていることを。
二度とくりかえさぬように
わたしたちは
決意をもって選ぶべき道がある。
わたしはそう、おもっている。
長いものに
したたかなる力あるものたちに
だまされ
巻かれたりはしない。

6月6日というのは
二十四節季でいうところの
芒種
にあたるのだそうである。
そんなわけで今年もその日を迎え、
わたしもまたひとつ、歳を重ねました。
今年はぞろめ。
わたしは髪を短くしました。
こざっぱりして、気持ちがよい。
ほんとうはいつか、
たとえば35歳になったら一度
どんぐりみたいに髪を切ろうなんつって憧れていたのだけれど
ひとはいつおわりがくるかわかったものではないし、
いつかなんて悠長なことをいっとらんと
やりたいことはいま、やることにした。
そのひとつ。
ちなみに髪を切るのは新月のころ
と、決めております。
重ねてきた覆いを
はぎとって
真ん中を鮮明にしてゆく
その中心をぴかぴかにすることだけ。
過去でも未来でもなく、今である。
そうすればきっと
もっと目の前は素敵になるだろうし、
生きることももっと楽になるだろうとおもう。
よろしゅうにね、あたらしい歳。
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