
宮澤賢治はいいました。
でくのぼうになりたい
そう直線的にいってしまえば
語弊があるのかもしれない。
賢治は世にいう「でくのぼう」じゃございません。
頑張り屋ですし、努力の人でいらっしゃる。
わたしはというと、賢治さんの例の詩がすきで
そらんじていうこともできますし
(そんな人はこの国にこじゃんといるんだろうから自慢のひとつにもならないけれど)
引っ越しと同時に新しい家の茶の間に、かの詩を掛けたくらいです。
(詩のプリントされたガーゼのハンカチを、だけれど)
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、
とまあわたしが声に出して言い出しまして、
しまいの
ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ
まで言い終えて目を潤ませていますと決まって
聴いていた母や妹などが
「だいじょうぶ、なってんじゃん」
なんてことをいいます。
わたしはこの詩が好きなのですから
謙遜しながらも心中でにやっとするのですが、きけばそう
ようするに、あんたはすでにでくのぼうじゃないのよ、
というわけなのです。
はー。
意味が違うね。意味のほうがよ。
このごろつくづく、自身のでくのぼうぶりに途方にくれます。
つまり、仕事に追われているのにかけないのであります。
くまった。
向いていないのかしら、と何度もおもいます。
日も暮れかけて、
ベランダにでて洗濯物を取り込んでいますと
むこうに山がみえます。
もうすっかり春の山で、いろんな若緑が手を伸ばしている。
もこらもこらとした木々のかたまりの一片に、わたしもひとつなれないものだろうか
と、一寸おもう。
空には鳶、
ここらあたりには非常に鳶が多く生息しており
外でごはんを食べるときにはのほほんとしているとかっさらわれます。
のほほんとするために海や木の下で食事を広げているというのに
常に上空に気を配り、警戒心まるだして、隠しながらにもって飲み食いしなければならない。
という矛盾をかかえた地でもあります。
しかし、それもまあよい。
一度、娘などはあたまにのっかられて手元のコロッケパンをさらわれたことがあり
以来、娘は嫌がります。
面白いけど。
たしかにこわいね。
面白いけどね。
脱線してしまったがそう、でくのぼうである。
わたしはつくづくのでくのぼうなので、
生まれ変わりはぜひ、人間以外のものにしていただきたい。
木とか、
鳥だとか、
海の漂流物、なんてのも好い。
そんなことをおもいながら空を見上げ、
雲のいった跡に残る、白く欠けた月などをみる。
すこし歩けば海にもゆける。
ここへ越してきてから1年とすこし。
ここへきてよかったとおもう。

心というものはついふとしたことで
弱り果ててしまったりするもので、
なんていうこともないはずだのに
あまりにあっけない。
けれどもね、
庭へ出てみれば
青梗菜だったはずのところに菜の花、
ルッコラのところにも白い花、風に揺れて
もりもりと花盛りなのである。
上空にはぶんぶんと蜂、
低空飛行のツバメ、
かあかあとカラス、
くるくると鳶、
飛行機雲。
ムーミンの主題歌の仕舞いにもこうある。
素直な心だけが、あればいい
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