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  日々、ミカンのこと                 

nalu

庭木 

四季 |

mokkou


娘が小学校に入学した春
区が、お祝いにと
希望者に花の苗木をくれた。

モッコウバラ
と札のついたひょろひょろしたそれを
選んで、植えた。

途中引っ越しをして
ベランダの鉢から庭土に植え替えられたその花は
少しずつのびて、
この春ようやく
初めての花を咲かせた。

もこらもこら、して
淡く黄色い。

今年いっぱいで娘は小学生でなくなる。
月日とはよく
わからない。

花は
つぼみの時が一番すてきだ、
とこの頃の私はおもう。

まだ何色かもわからない、あるいはその先っぽに
微かにその花の色を潜ませて
ぱっと咲きひらくその日をしずかに、
待ち構えている。

あの小さなぎゅっとしたつぶつぶ、
あれがことに可愛らしいなあとおもうのは、
私が大人になったからなのか、
しら。


大学一年の春、
田舎からひょっこり都会へやってきて
小さなアパートを借りてもらい、
10日間ほど、母にあれこれお世話になった。

台所の道具、爪切り、本棚のラックやいろいろを
買い揃えてもらい、
3食をともに食べた。
そんななか、例のごとく私は母に偉そうなことをいくつも言って、
たびたび口げんかをした。

そのたびにああ、母はなんて子どもっぽいのだろうかと思ったりした。
さながら非常に失礼である。


そうしてあと数日で母も父の待つ田舎へ帰ってしまう、
というある夕方、
新しい町の、少々寂れた商店街を歩いて
夕飯の材料をふらふらと買い物していたとき
ふと、
母が空を見上げて
「お母さん、この空の色がいちばん好き」
といった。

みれば空は、
夕焼けも終いで深々と蒼く、
夜への境界線のような深い色をしていた。


澄み渡る真昼の青でない
その色をみて、
ああ、
母は大人の女性なんだと
胸の中で静かに、おもったのを覚えている。

その春、
母は私に初めてのお化粧品を
買い揃えてくれた。
口紅に、アイシャドウ、いろいろ。

私は浮ついた心でそれらを塗り、
こわごわと、
しかしふわふわと都会の町へ学校へ
出かけて行った。

青いよのう。

結局、自分にはどうしても口紅は似合わなくて
いまでは一本の口紅も持たない大人になった。
リップクリームで十分である。

そんなふうに、
年を、重ねて

いきて、いるのだ。

母も、娘も、どのひともすべて。


春は
記憶と現実が入り混じって
眠くなったりする。



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春と記憶 

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haru


小学生のころを、
私は、三陸の町で過ごした。

丁度いま、朝の連ドラで舞台になっている、町。
琥珀や北限の海女たちがポスターとなって
駅に貼られていた町。

娘にせがまれてそれを、一緒にみたんだけれど
その、さびれていくばかりだった懐かしい町を
画面のなかに見て、
なんだか正体のわからない、涙がでた。

あのころの小さな身体の中のこと、
その感覚の引き出しが掘り出されて、
なのか、
なんなのか正直、本当にわからない。

ただの懐かしさだけで、説明のつかない
なにか。


私は、小学生の頃、
2年に一度のクラス替えが死ぬほどいやだった。
なぜ、
仲の良いこの仲間たちと
春、という区切りで別れ別れにならなくてはならないのか、
だとしたら一体、
この濃密に積み上げてきた2年の歳月は何のためだったのか、
なぜ、
こんなにもすいている担任の先生とさいならして、
先生はほかの子どもたちとまた新しくはじめなくてはならんのか、
まるでその理由が、わからなかった。

そのむごさの意味が、必要性が、道理が、
わからなくて本当に
ただただ、次の春のやってくるのを
おそろしく、かなしくおもっていた。
のを
憶えている。

それはまた単純に
私がそれなりに愉しくやっていたからであって、
一方でその月日を苦々しく思い、
次のクラス替えを心待ちにしていた人も
あったのかもしらない。
のだけれども。

大人になると、
己の好き勝手でたいていのところ
区切りのタイミングをつけ、られることになる。
クラス替えなんてものはないし、
担任が変わることもない。
会社員の方々には、転勤だとか
(私の父もいわゆる転勤族で、私はそれで全国方々の町をてんてんと暮らした)
人事で部署を移動、なんてものもあるのだろうが
私はなにうえ風来坊のフリーランスであるので
思いのまんまに、それは自由である。

そんな折、ふと
誰かとお別れをしなくてはならないときが、くる。

愛想がつきて、もう顔もみたくもない
せいせいする別れなら気も楽なのであろうが
そういうわけではない相手と
しかしさまざまな事情でお別れしなくてはならぬとき
がある。

それはそれは悲しくてたまらない。
それはそれはさみしくて、
残念で哀しくてならない。
その手のひらを、放さなくてはならないのだ
と、知ったとき。
気がついたとき。

ふと、三陸の町で暮らした
あの頃の春のことを思い出した。

あの、今より小さな
今の娘ぐらいの身体のなかに、
小さくも、たしかな、心があって
目に見えるものがすべてだったその世界を
まっすぐに、みつめていたあの頃のことを、
思い出した。

春に、
かなしくてかなしくて泣いたこと。
なぜなんだろうかと、理解もできぬまんまに
しかし何の手立てもなく
ただ
月日にもくもくと押し出され
次へと
進められていったあの頃のこと。

さようならはかなしい。
かなしくて痛い。
痛くてくるしい。
さみしくて、さみしくて、きっとたまらないだろう。

だけれど
すすまなくてはいけない

のかなあ。


春の海をみながら、考えている。
海の水は、もうひゃっこくない。





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