
ものにもいのちがある、ときいたことがある。
むかし、
金髪のロック歌手が
自身の愛車との間に起った物語について
TVで話すのを聞いた。
くるん、とカールした長いまつげを瞬かせながら
きらきらした目で話すその様子をみて、
ああ彼はとても純粋な人なんだなと
当時の私は思った。
こういう人は、
物との間にも心を通わせることができるんだなと。
さて、
うちには台所にゼンマイ式の中国製置時計がある。
盤面には鶏と雛の絵が描いてあって
かちかち、
ゼンマイが動くたびに鶏の頭が動いて
餌をつつくような仕草をする。
時々来客がそれを、
古くて可愛らしい
などと意外にも褒めてくれると
私はそのたびに話すんだけれど、
これは私が中学2年生のときに父へのプレゼントに買ったものだ。
父の日だか誕生日だかに
何か欲しいものはありませんかと尋ねたところ、
目覚まし時計をもらえたら嬉しいな
と父は言った。
私はその頃傾倒していたアジア製の雑貨を売る店へ
自転車をこいで出掛け、吟味の末
お小遣いでこの時計を買った。
正直、父ではなく
完全に私の好みであったことは否めない。
気に入ってくれるかしらと
どきどきして父に渡すと、
父はひとしきり喜んで喜んでみせて
その晩から枕元に置いて使い始めた。
翌朝にはけたたましい音で父をたたき起こす。
金属製のそれは、
内部でその金属をたたき鳴らして人を目覚ます仕組みとなっている。
その音は隣の部屋へもよく聞こえた。
それから数日だか数週間だかして、
父はぼそりと
このかちかちいう音が大きくて眠れないから使えない
と、言い出した。
目覚まし音に毎朝心臓が飛び出しそうになる、とも
いったような気がする。
私はむろん少々残念だったけれど
仕方ないのでそれを譲り受けた。
父は
プラスチック製の電池式の四角い目覚まし時計を
こっそり自前で買っていた。
それからずっと、
私の暮らしのどこかで
その時計はかちかちと時間を刻んできたのである。
ざっと20年ばかり、
時にはゼンマイを巻き忘れたり
好みとちょっとずれたりしたことから
眠ったり、動いたりしながら
生きてきたんである。
それがいよいよ
ゼンマイを巻いても動かなくなってしまった。
どうにも今回ばかりは、
振っても、数か月そっと放置してみても
話しかけても
ぴくともしないのでだめらしい。
残念だが仕方あるまいと
一大決心でゴミへ出すことに決め、ビニル袋に入れた。
この頃のゴミ収集事情では
なかなか、
不燃ごみというのは回収日が来ない。
数日後、台所に立っているとどこからか
かちかち、という音がする。
きょろきょろすると
ビニル袋につっこまれた時計からその音はしてくる。
目覚まし時計は、
また動き始めていたんである。
これはどう考えても
捨てられる、と
知ったこのお時計さんが
慌てて蘇ってきたのにちがいない。
としか思えない。
ああすごいな、時計はちゃんと意思をもって
生きているんだな
と思ったんである。
日本には古くから
やおよろずの神、という考えがある。
何も、この世に生きるのは人間ばかりではない。
植物、動物はもちろん
石にも、大地にも、海にも、
人間がつくり出した造形物にも、
いのちはあるんだろう。
私はものによく話しかけるし、
庭のニラやパクチーを摘むときにはかならず、
頂きますね、
ここ、いい?
どうもありがとう
と、一方的かもしれないけれど
断りとお礼を申し上げる。
そのわりには、
怒ると扉をバタンと乱暴に閉めたりもする。
そういう一部始終をあらゆるものが
みたり、
感じたりしているのだ。
もう今年も数時間でおわり、
次の年がやってくる。
家を掃いて、
しめ縄を飾って、
鏡餅をお供えして、
扉を閉めて、
家に
今年もお世話になりました
私たちを雨風から守ってくれてありがとう、
来年もよろしくお願いします、
と言って娘と頭を下げて、
帰省してきた。
来年もまた、日々が愉しくあるように
温かな人生を歩んでゆけるように
本年も大変お世話になりました。
ありがとうありがとうを
あちこちに、心よりこめて。
みなさま良き、
新年をお迎えください。
かしこ

拝啓、
私の家はクリスチャンではないけれど、
田舎町にある数少ない幼稚園の一つとして
聖母幼稚園に通っていた。
年長さんのクリスマス会には決まって
聖夜劇を演じることになっていて、
私の役柄は、3人目の宿屋のおかみさん。
そこには3件の宿屋が並び、そのひとつひとつに
「今晩泊めてくださいませんか」
というヨゼフさんとマリアさんに
皆一様に首をふる。
年末で書き入れ時なのか宿屋はどこも一杯なのだ。
いよいよ3つ目のドアをノック
「トントン」
すると、
腰巻きエプロンをした私とその旦那役の男の子は
「お部屋もいっぱいになりましたものね」
と両手をぐるっと回して叶わぬことを表現。
でも、
と続いて
「馬小屋でよかったら、どうぞ」
といっておふたりを厩へご案内する
というものだった。
そのとき母から借りた腰巻きエプロンが、
どんな色柄をしていたのかは、
今でも母の箪笥の引き出しをあければそれを取り出して
これです、
といえる。
夜に、父母と妹と4人で寒中自転車をとばして
町にもう一つある、
これまたキリスト教系の幼稚園へ出掛け、
その中庭に立つ、もりもりと大きなモミの木に
光がいくつも灯るのを見に行った記憶がある。
夜、といってもそれはおそらく
7時とか8時とかそこいらで、
でもあんまり外が暗くて寒いものだから
それがまるで真夜中みたいに感じた。
そして
自家用車もあるのに、なぜわざわざ極寒の中を
4人揃ってチャリンコをこいでそこへ行ったのかというと、
それはおそらく夕飯に父がお酒を飲んだためで、
そんな理由で我が家はたびたび、
夜の外食にも自転車で町へ繰り出した。
いよいよ中高生ともなると、その
カルガモか雁の群れかなにかのように
4台の自転車を連ねて出掛ける様が
妙に恥ずかしく、私と妹はそれを嫌がった。
そんなわけで、
子どもの日だというのに何故
父さんの飲酒に重きが置かれ、
自転車でなければ行かない、といわれるのか
私にはそれがとても理不尽なことにおもえた。
今となれば、
お酒なしでお祝いになるかい、という
父親の気持ちもすこしわかる。
とにかく私は
どうでもいいことを恥ずかしがる生意気な娘だった。
そんな生意気女にも、幼いころはサンタさんが来ました。
そんなことより、
その、
暗闇に見た大きな木が、
私はとてもすきだった。
あれはモミの木だったのかはわからないけれど、
赤だのピンクだの青だのでない、
ただ
真っ暗闇に立つ真っ黒い木に、ぽつぽつ
ひかりが幾つも灯る姿は、
吐く息とともに
私の脳裏に刻まれている。
それにきっと、あそこへ車でぴゅっと行っていたのだとしたら
こんなにも鮮やかに、印象を
残さなかったかもしれない。
さてさて、
そんな聖なる夜に
私ども the yetis は、今年もライブを行えるはこびとなりました。
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12 / 25 ( wed )
DAYS386 & p&g & the yetis presents X'mas LIVE
--- 海の傍らに聖夜を ---
at DAYS386 ( hayama )
http://www.days386.com/
open / DJ start - 18:00
live start - 19:00
2,500円 ( ドーナッツ & 焼き菓子 付き )
-- LIVE --
the yetis
ラクダ盤 ( 行川さをり、眞中やす )
-- DJ --
anmo ( the yetis )
この日は恒例となったDAYS386にて、
p&g にも力を貸していただき、クリスマスライブを行います。
来て下すった方には特製のドーナッツと焼き菓子をご用意しております。
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先日のpeacenicで初聴して、
とてもとても感激した
「ラクダ盤」さんにお声掛けして
このたび、ご一緒が叶いました。
ほんとうに素敵なお二人の演奏は
心に残る夜を約束します。
我々も、
良き宵の時間になるよう
心して唄います。
是非ぜひ、
お待ちしております。
最後に、
敬愛する
仲井真沖縄県知事。
あなたに今かかる国の圧力がいかほどか
お察しいたします。
それはおそらく
私なんかの想像を優に超えるものでしょう。
それでも、
どうかその重圧に屈さず、
「辺野古の埋め立てを認めない」
という英断を下してくださるように、
私も
この国の民のひとりとして、
心から応援いたします。
うつくしいうみが、
せんそうのために
うめられることのないように。
敬具

拝啓、
神社へゆくのは朝が好い、と
聞いたことがある。
年々朝寝坊の癖のある私にはそれが
なかなか容易ではなくて
うっかりすると、それがお昼だったり
お昼過ぎであったりする。
誤解のないように云いたいのだが
私は朝寝坊といってもなにも昼、または昼過ぎまで
ごろごろ布団から出ないというわけではない。
早起きとはいえないまでも
まあなんとか、
こんにちは、よりは
おはよう、の似合う時間には起きだすのだけれども
顔をあらったり、
朝ごはんをこしらえ、食べて、片づけたり、
軽くそこらを掃いたり、
あら、お花に水をあげなくてはなんないし、
今は亡き祖父祖父母の写真の前に並べた
お茶碗の水を取り替えて手を合わせたり、
野良猫に餌をやったり、
寝間着から着替えたり、
化粧水をはたいたり、
など
ごく一般的な朝の些事をしている間に
休日などはあっという間におひさまが
てっぺんに近いところにあられる。
ああ勿体ない、
そういう気持ちになってしまう。
うんと早く起きて、
午前中もなにかひとつ成し遂げられるような
そんな日々が理想である。
さてさて、
そんな私にとって
願ったり叶ったりの、うれしいお誘いを頂きました。
the yetis
初の、あさのライブです。
それも、
海を臨み佇む、森戸神社の参道のなかにある
「p&g(Paradise Alley & griot )」
なる、
サンドウィッチも、コーヒーもべらぼうに美味しいカッフェにて。
鎌倉にある名パン屋 Paradise Alley
のパンを使い、
元 griot の素敵な空間で営むこの店の主は
すらりとした、気持ちのいい青年。
おそらく自分でペンキを塗ったとおもわれる
古ぼけた自転車に乗っていて、
妙にそのサドルや荷台が格好いいとおもったら
昔ベルギーの蚤の市で買ったのをつけました、という。
身に着ける服や帽子やいろいろも
彼でしかない、独特のもので
ああ、こういうひとをほんとのお洒落というんだろう、
とおもう。
そんな主のつくるサンドウィッチの絶品を、
ぜひ一度味わってみてもらいたい。
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2013 / 12 / 08 ( sun )
the yetis morning live at p&g
--- asa no kai vol.1 ---
at p&g ( hayama )
live start - AM10:00 ( cafe open - AM8:00 )
charge - donation ( 投げ銭 )
この日は葉山の森戸神社の境内にあるカフェ、
p&g ( Paradise Alley & griot ) にて朝の演奏を行います。
美味しいサンドイッチやコーヒーをいただきながら、
のんびり日曜の午前を楽しんでいただければと思っております
入場料は設けておりませんので、
朝のお散歩がてらお気軽にお越しください。
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私は特定の宗教に傾倒しないのだけれど、
目を閉じて、
手のひらを合わせる瞬間を
とても大切におもっている。
鳥居の前を通る人が
ふと、立ち止まって
手を合わせる姿をみるのが好きだ。
鳥居をくぐって出た後に
くるり、振り返って
軽くお辞儀をする父の姿がすきだ。
こういう場所で、
朝の空気のなか、
うたえることを
幸せにおもいます。
日曜日の朝
ぜひいらしてください。
敬具

この春に仕込んだ梅ジュースが
飴色に出来上がったのは、
今年は黒糖を使ったからである。
ふと無性にそれを入れた
しゅわしゅわしたやつが飲みたくなって、
買い物先でふと、炭酸水を探した。
数年前までは、サントリーのガラス瓶に入った
SODA水を見かけたものだけれど
今やその棚には、
ペットボトル入りのそれが並ぶばかりである。
わたしは常々、
ペットボトルを避けて通って暮らしている。
娘が道中、
水筒のお茶がなくなった、のどが乾いたといっても
彼女がちいさな時分から
よほどの緊急事態でもない限り
わざわざ紙パック入りのそれを探して、
そこから水筒へ移し替える。
ペットボトルはリサイクルしてエコ、
なんて謳い文句を聞くけれど
あれをリサイクルするにはまた、うんとコストもエネルギーも使うのだ。
そもそも、かれらはこの石油エネルギー枯渇の時代に
その石油からうまれている。
わざわざどうして。
たとえば職場の、PTAの、町内会の、
集まりや会議ごとにはたびたび
人数分のペットボトル入り飲み物が用意されてそれが
親切で気の利いたことのようにふるまわれるけれど、
わたしはその光景をみるたびに
めまいを覚える。
コップを持ち寄ってお茶を沸かすか、
せめて大きいの買ってみんなで分けましょうよ、と
言ってみたりもする。
ちいさな、こんな小さな積み重ねが世界をつくっている
と、
わたしは信じているからである。
けちけちばばあ、とゆわれてもよい。
わたしは何より、資源やエネルギーを無駄に使う人間の営みの様が
どうにもはずかしく、あほくさくみえてしかたないのである。
さて、
このけちけちばばあは
その、ペットボトルに入った炭酸水の前で考える。
何分も考える。
悩んで悩んで、その日は結局買わずに帰る。
わたしがひとつ、何かを選ぶ。
たとえば服を、たとえばニンジンを、たとえば石鹸を、シャンプーを、お醤油を。
それは小さな行為だけれど、
それはわたしの意思で生きる、ことだ。
たとえばデモ行進や署名やことばと並んで、
わたしはわたしの、この大地の上に立ち、それを踏みつける足跡を
極力、小さなものとしたい。
このちいさくも誇り高き、選択と行動によって。
そんなことをえんえん考え、家に帰る。
でもやっぱり、しゅわしゅわが飲みたい。
その数日後、また買い物先で棚の前に立つ。
考える考える。
うでぐみをして、考える。
目の前に500mlペットボトルのしゅわしゅわ水、
89円。
その傍らに瓶入りのそれよりやや少量のしゅわしゅわ水、
105円。
わたしの一本ごときのソーダ水購入の、
ペットボトルボイコット運動は果たして、
いかほどの影響をおよぼすのかしら、
など弱気な気持も邪魔をする。
そもそも、じゃあしゅわしゅわ水、あきらめたらどうかしら
などの声も聞こえる。
首をいくつかふって、
なんども順繰りにかごに入れたり出したり、
お店屋さんにおかしな光景。
そうしてうなずいて、
わたしは瓶入りの、すこしすくなくて、すこし高いほうをお会計に持って行った。
どうかこのひとかけらが、世界をつくるように。
どっちでもええがな、あほでんがな、と
笑いたい人はわらえばよい。
みみっちいかもしれない、
けれど、気高き志。
こんなふうにして、日々
ちいさな葛藤をくりかえして、
わたしは生きている。
そんな市民をよそに、出現
押し通そうとされている、
特定秘密保護法案
断固、わたしは異議をとなえます。
まもりたい、まもるべきものへの
大きな砦であるこの法案が
決して通ることのないように。
いろんなこえ、
いろんなひと、
いろんなきもち、
いろんなせんたくが、
のびのびと許される
自由な世の中であるように。
わたしたちは、
現在の国の横暴を、拒否します。
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