
たまには歩いて
お米屋さんに
お米を買いに行った。
行きしな図書館によって
本をかえして
本をかりる
トンネルを抜ける
なんとなく
息を大きく吸って、
息をとめたまま歩いてみる
誰が計測してるわけでないのに
妙に焦ってしまって
全然
まるでトンネルの半分も息がもたずに
ぜえはあする。
素潜りをするおんなのひとが
脳は思考に酸素を使うので
なにも考えず
無の状態でもぐるといい、
と話していたことを
思い出す。
おばさんと話して
お米をかう
お米は5分づきにしてもらう
削ったぶんの糠をいただいてゆく。
なににつかうの?
というおくさんに
今朝焼いたパンケーキに入れたらおいしかったことを
話す。
スコーンにも
クラッカーにも
チヤパティにも
いれる。
すこし香ばしく
味が深くなるようでおいしい。
おまけに身体にもよろしい。
5キロのお米は
抱えてあるくには幾分重い。
またトンネルをくぐって帰る。
重いし今度は息は普通にしてゆく。
というかとめることをわすれている。
5キロといえば
娘がこのくらいの重さだったころもよく
抱えて歩いたっけ
と、かんがえる。
この米袋もあの頃の小さな子
そう思えばすこしは軽くなるかしらとおもったけれど
それは変わりなく
5キロの重みで
あのころ
ベビーカーに乗るのを好まなかった娘は
もっているレーズンを食べてしまうと
のけぞってあばれるので
娘を抱っこして
空っぽのベビーカーを押して歩いたっけ
なんて思い出す。
あのときは必死だったけど
なにもかも
かわいかったと今はおもう。
そしてなにもかもすべて
一度きりだ。
そんなに長いともいえない
トンネルが終わりに近づいて
穴のむこうにいつもの町がみえる。
その迫りたる堂々の山の緑をみて
こんなにきれいだったか
と
そのさま新鮮に吸い込みながら
トンネルを抜ける。
まるであたらしいものを
みるように。
町は夕焼けが空を染めて
全体がオレンジとも
桃色ともつかない
まじりあった色で満たされている。
後光のように
日が今日の日にさよならをいってゆく。
町を
空を
ぜんたいを
こんなにもダイナミックに染めて
それを
惜しげもなく
そしてきっと一度もまったく同じはなく
これ以上ないほどのうつくしさで
それを
毎日繰り広げているのだから
やっぱり
叶わないな、
でっかいな、
さいこうだな、
とおもう。
愛してるなんて
軽々しくいえないくらい
わたしは
この太陽
海や
空や
山々や木々花々草々
なんていうんだこれ、ひとまとめで
自然?
なんだかしっくりこないけれど
こういうすべてを
わたしは、
全身全霊
尊敬している。
お慕い申し上げている
普段は自転車をとばしてばかりだけど
たまには
あるく
というのもいい。

庭の露草に
花が咲いた
幼いころ身の回りにあったのは
つゆ
のような青色だったけれど
今の家辺りに咲くのは
外来のほうらしくて
白い花
ぽちぽち
緑に星を散らしたようである。
さて
立夏をこえ
土用もすぎて
いよいよすべてが夏へと向かう気配のなか。
ツバメがついつい
空を行き交います。
蜜柑や檸檬の花ののうみつな香りがします。
海はいつでも、惜しみなくきれいです。
a story of May.
五月の小さなものがたりとうたの会
お知らせです。
・・・・・・・・・・・・・・
2016.5.30 (mon)
a story of May.
小さなものがたりとうたの会
茨木のり子、 そのひとの詩
am 10:00 ~
at cibo (葉山・上山口) → ●
place charge 1,000en (お茶とお菓子つき) + donation
わ
になって、
めにはみえない音、声、ものがたりに
みみと
こころ
からだをほどいて
ひらく。
5月の物語は
「茨木のり子」
幼いころの国語の教科書からはじまり、
学生時代、そして母となってから、
いつしかその節々で詩集を繰り、
我がこころの灯台のようにおもってきたひと
茨木のり子 さん。
お会いしたことはないけれど、
背筋のぴんと伸びるうつくしい姿が
うかぶ
大事におもう詩人のひとりです。
その詩
のなかから、何篇かを。
うかんでくる唄を。
すこしばかりの唄や響き
朗読のあとは、
母音を手がかりに
ご自身の声で
内面に、深く潜り
自分自身をととのえてゆくような
声のワークもおこないます。
わたしとせかいがひとつであるような感覚を
共振、共有してみたいとおもうのです。
おしまいには cibo の主、みとなさん手製の
美味しいお茶とお菓子をしみじみ
いただきながら、
シェアリング
ようこそおいでください
・・・・・
いつもいつもに
感謝をして。
うつくしい初夏を、
ゆきましょう。

夕暮れてからの
うす暗がりのなか
道端のハルジオンが
うつくしくて、
息をのむ。
ハルジオンなら
娘は
庭先の貧乏草をそろそろ抜いてはどうかと
わたしにいう
あちこちでよくみる
珍しくもなんともない野の草である。
先日ふと帰り道
いつもの道端に、そこだけひかるように
楚々として優美な花の一群が咲いていた。
街灯と月明かりにほの白くひかる存在を
初めてみたような気がして一寸
足をとめ、
まじまじとその花を見る。
あれ、ハルジオン
ハルジオンか。
あんまりにそれが昼間の姿とは見違えてみえたので
翌日、
もう一度それがハルジオンであるかどうか
確かめに行ったくらいである。
まぎれもないその花であった。
夜の姿は魔法をかけたように
なる、こともある。
こうなると、やはりまだ庭のこの花は抜けない。
いや、
ハルジオンに限らず
なかなかわたしは草が抜けないし刈れない。
だって此の先、
これがどんな花を咲かせるかしれないし、
だいたい
このように旺盛に生きる草を
とくに明確な理由もなしに一斉に刈ることはできない。
そんな権利がわたしにあるのだろうか、と
おもってしまう。
わたしからみれば、
窓の外の庭の草ぼうぼうは
野性味あふれる
うつくしい緑にみえる。
空っぽに剥げ散らかした姿より
よっぽどこのほうがきれいにみえてしまう。
それがわたしだけ、なのはうすうす
いや濃厚にわかっている。
ご近所の方々はもう熱心に草という草を刈る。抜く。
袋に詰めてごみの日に捨てる。
あれ、土に還るのになあとおもう。
なにもそんなに急がなくたって、
土が微生物が菌たちが、
土へとかえしてくれるのになあとおもう。
わたしの庭だけ、枯れ葉が散らばっている。
それが人々の目にどう映るのか、
わかるんだけど、
せめてここだけはわたしの自由にしたい、いまのところは。
とはいえここは借家なので
寛大な大家さんからいよいよ
草刈り令がどうかくだらないように、
静かに祈りながら
いる。
雨の降るごと
留守から帰るごとに
庭の草々はのびる
連休の旅からかえったら、
庭に
見知らぬ花が咲いて居た。
小さな
かいらしい薄桃色の花である。
父曰く、
ニワゼキショウ
だという。
どれどれとよくみれば、
先日草刈り鎌を手に
庭に出てはみたけれど
刈り切れずにそのままにした草が花を咲かせたのである。
ああやっぱり
やたらと引っこ抜かなくってよかったと
その小さな花をみておもう。
あちこち
にょきにょきと唐突に生える
ハルジオンも
もうすこしこのままにしておく。
雨がふる
上がるころにはまたきっと
蕗の葉も大きくなっている
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