生きうるかぎり
この題名を与え
手触り佳き小冊子を創ってくだすったのは
せつ / 北嶋宏美さん
東京・copseでの展示会にむけて、
彼女自身の作品集をつくるつもりが
気がついたら自分の作品そっちのけで
こうなっていた
と、彼女は云ってくれた。
いつ、かいたのだかわすれていた
ここ、日記のような処に書き連ねたある日のことばを
彼女はこの一年 激動する世情のなか
生きる我が身の支えとして、
もうくりかえしくりかえし
くりかえしくりかえし、
ひらいては、頷き
読んでいてくれたのだそうだ。
今のわたしにも
必要なことばだ
だから、
書き手としてこんなにありがたいこと
嬉しいことはなく、
それと同時に
かつてわたしのかいたことばではありながら
常々ことば
とくに詩のようなものをかくときには、
私自身から捻り出したものでなく
いつも
わたしにしずかに届いてくるものをただ、
ことばにしている
そういう感覚であること
そのことをあらためて実感するようだった。
それは
わたしにとって
こえや、うたのようなものにも通ずるところがある。
だから
この一冊のささやかな本が
文字が、ことばが、慎ましやかなせかいとともに
必要なところへ今
届けられるのならば
ことばは
そのみなもとは
なによりうれしがるとおもう。
わたくしのほうでも
郵送、お振込にて取り扱い、販売を
いたします。
お求めの方いらっしゃいましたら
ご連絡をこころより
お待ちしております。
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「生きうるかぎり」
文/ nalu
デザイン/ せつ
写真 / 河部 有璃
モデル / kaya
衣 / invincible
¥880(税込)
○ご注文、お問い合わせ
satomikan_y@yahoo.co.jp
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深く
うつくしいひと、
北嶋宏美さんに感謝して。
三週間ぶりに家へかえった
ああ わが家だ
かえってきたんだとおもった
ほっとした。
かえって早速
わらわらとご近所さんたちがやってきて
まいにちまいにち、
まだかまだかと
窓をあけては待っとったよと
むすこの頬にすりすりしながら
よろんでくれた。
むすこもじつに
うれしそうであった。
わたしも心底
安堵した。
ここで生きること
ここに居ること
それをえらんだこと
葉山、東京での唄の環へ
来て下すった方々
来たいとおもってくだすった方々
ほんとうにありがとうございました。
また
滞在中にお会いできた方々
お世話になった方々へ
こころより御礼もうしあげます。
幸福な
素晴らしいひとときでした。
本来、家に留まり
じいっとしているはずの土用の間に
何故
わたしが長い旅をすることになったのか
なんだかすべてを終えて
わかったような気がしている
我が住み暮らした
いとおしい家はまっさらの更地になり
大家さんはそこへ
檸檬と蜜柑の木を植えようかなと云った
最期にその土の上に立ち
りょうてひろげ
ああほんとうにゼロになったんだ
と、おもった
零になったんだ
共にこちらへ来て、
十日ばかり滞在していた母も帰って
立ち寄った浜辺で朝日を見
朝日を浴びて
なんだか
あたらしく
うまれたようなきがした
わたしが
うまれたようなきがした
はろー
あたらしい
わたし
はろー
なつかしい
わたしよ
ともにまいろう
この
おかしくもいとおしい
わがみちを
群れるのは
きらいだった
群れからは
はなれていた
すこしはなれて
独りでいた
ひとりでいると
おもっていた
ひとりでいると
あらゆるものと
共に在る
そら
たいよう
つき
かぜ
き
はなばな
またたき
ひかり
くも
ほし
ほしぼし
むし
とり
さざめき
あお
あか
きいろ
みどり
あおみどり
さまざま
さまざまの
こまかなものたちのこえ
かおり
つつまれて
ほほえんでいられる
わたし
まもられている
わたしの
たいせつなところ
ふるえてそれに
呼応する
なみだ
ながれて
こうふくに
ふくまれている
みまもられ
ここにいる
そんなわたし
そんな
わたしである
群れるのは
きらいであった
群れるのは
ほんとうとはズレていくから
わたし
つかれてしまうから
あとで
ひとり
海をみる
空をみる
星をみる
風といる
それは
あらゆるものたちと
群れ
戯れ
この地上
このせかいのなかに
存在しているのとおなじ
なのかもしれぬ
かもしれぬ
わたし
あなた
ひとり
ひとりが
そのままで
そのままの こころ
そのままの ひかり
そのままの 呼吸
そのままの 思考
そのままの
ままのままで
てんてん
在れるのならば
その群れは
うつくしく
重たくなく
かろやかで
嘘がなく
ほんとうで
のびのびとひかり
かがやくであろう
その群れの
この群れの
同志たち
同志たちよ
堂々と
誇り高く
わがひかり、わが闇
たずさえ
だきしめて
われをいつくしみ
いとおしみ
この群れの 先頭をゆけ
おそれることなく
ただ
すなおであれ
恥じることなく
まま
おのれであれ
あなたであれ
わたし であれ
それは
この地上
このせかい
このうちゅうの
てんてん
まばゆいほどの
ひかり
となる
てんてん
まばゆいほどの
ひかりとなる
/
於 copse.東京.立冬
ちょうど4ヶ月ぶりに
この町へかえった
10年暮らしたあの町へかえった。
9歳でここへ来て
19になるむすめ、
飛行機にのってとんでいった
17年ぶりに、父親と暮らす。
遠い異国で、暫くくらす。
この町でうまれたむすこ
1歳と半をゆうに過ぎ、
坂のぼり、
彼うまれた家に歩いてゆくと
ちょうどその家を壊しているところであった。
大家さんはすこし涙ぐみ
もう二階はないよ、みていって、といった。
もう
柱と梁と屋根と壁ばかりになった家
ばりばりとその木板をはがれ、
ばらばらとかたちをうしなってゆくところであった。
むすこ わたし
暫くことば無くそれをみつめ、
玄関の小さなドアチャイムのボタンとその壁に手のひらをあてた
あの
大好きであった東向きの窓
もうガラス窓もなく枠のみで
彼、生まれし部屋
ふたりで眠りし部屋あのうつくしい
窓からのひかり、けしき
窓の外のもみじの木、木漏れ日、すべては
なかったかのように
穴だけをあけている。
ああ
いとおしいわがいえよ
わがむすこうまれし
むすこうみしあのいえよ
二階上がればむすめの部屋
その階段もみるみるなくなりしを、
しばしみる。
ここには
なにもなくなるのだ。
いやもう、なにもないのだ。
ほんのかけらでも拾ってゆかんと
手をのばしかけども、
いや、わがこころのなか
むすこむすめわたしのなかに
よろこびもかなしみもすいもあまいもすべて
あざやかやわらかに
あるじゃあないかと
物に、たよるのをやめる。
むすこは
道に咲く花をほしがり
つと摘んでやれど
次のなにか、どんぐりや棒切れ木の実ねこじゃらしなどをみれば
ひらり、なんの執着もなくそれを
手のひらからはなす。
何でもにぎりしめポケットに入れ歩くわたしは
そのあまりにさらりと次へゆき迷いなき潔さに
おどろくのである。
しかし
おもえばきっと
それでよいのだ。
こわれゆく家を見送り
また
偶然にもこのときに立ち会えた必然のようなものに
ことばなくつつまれる。
わたし
わたしは
ともすれば
生きる
また
にんげん
にんげんであること
そのあまりにざんこくさやふじょうり
ときにとほうにくれ
あまりのつらさに
ふきとばされそうになるのである。
いや
わたしがわたしをふいてけしてしまいたくなる
こともある
それが
よいわるい
わたしにはわかりかねている
ただ
生きておれば
また
よろこびもあるのである
涙こぼすことも
ふるえることも
あるのである
ああ
生きておってよかった だの
わたしはいましあわせだ
しあわせものだ
など、まじりけなくおもうことも
やってくるのである。
つなわたり
つなわたりの
この生、人生なのである。
ひらり、
この先へ
とんでゆけたらとおもう
齒くいしばるのは
もう
ええんじやないのかえ
わたしはわたしの肩をたたく
わたしはわたしのあたま、なでる
/
於 cibo.葉山. 霜降
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