
いそいそと 8月が、もう終わりかけている。
8月は6日、9日
そして8月15日…と
忘れたくない日が
いくつもあります。
小さい頃、
8月6日の朝 8時15分。
決まって母は、NHKをかけた。
物凄く暑そうな広島の公園に
一面に響く蝉の声と、
物凄く沢山のひと。
読み上げられる言葉、
鐘の音
「黙祷」 という声。
母は手を合わせて目をつむり、
私もよく分からないながらに そうしていた。
ちらちら母の顔をのぞいたりしながら。
正直、私はこの日がこわかった。
一瞬の閃光と、
溶けた人々。
めくれた皮膚、とびだした目玉、垂れ下がった着物。
声にもならない声。
誰が誰だかわからなくなった人々の行列。
その恐ろしい光景を、
わたしはテレビや絵本、写真でしかみたことがないけれど
語られることばや映像は
強烈に恐ろしかった。
ひとりでトイレに行けなくなるぐらいに。
それはつくりごとなんかじゃなく63年前、
たった63年前
現実に起きたことである。
わたしたち人間が引き起こしたことである。
広島に限らず、
長崎、沖縄、東京、南の数多くの島々、そしてアジアの国々…
あらゆる場所で、この空の下
起こった恐ろしい出来事がどんなものだったのかを
もっともっと知らなくちゃいけないとおもう。
この先ずっとずっと、
強烈に忘れないよう
伝えていかなけりゃ。
風化なんかさせないんだ。
と、つよくおもう 8月。
いつしか私も母となった8月6日。
めったにつけることのない我が家のテレビは
母と同じようにNHKをかけていて、
私の傍らでは
ましゅも目をつむって手を合わせている。
「何でこうするの?」
と問うましゅに毎年、広島に起こった出来事を
私なりに伝えている。
忘れたくないのは、
今もどこかの国では
血を流して、ひゅんと奪われる命がある。
武器で切り裂かれる子どもたちがいて、
爆弾で吹き飛ぶ手足があって、
核をもつ国が後を絶たない。
ものごとは複雑だとゆう人もいるけれど
こんがらがったときは
バカみたいに単純に考えればいい。
大切な人を傷つけられるのは誰しも嫌で、
手足が吹き飛んでうれしい人はいない。
泣き叫ぶより、
笑ったり、歌ったりしているほうがいい。
戦争なんてもののほとんどは、
ほんのひと握りの権力者の
私利私欲を満たすために
普通の人々が殺しあって、
虫けらみたいに死ぬ。
そんなんでいいわけがない。
平和なんていうものは
自然発生的に与えられるものじゃなくて
私たちひとりひとりがつくるものだ
と
私はおもうんである。
無関心から一転
その意識があつまるだけで、
随分と世界は変わるとおもう。
つい先日。
近所のTSUTAYAで
気になっていたドキュメンタリー映画
スティーブン・オカザキ監督の
『ヒロシマ ナガサキ』
をみつけまして。
相変わらず怖がりの我輩。
ひとりじゃ心細いので、
両親を誘って一緒に観よう、とおもう
8月最後の
この週末であります。
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