
3月、
りんご形をしたまな板。
これは祖母の台所で長く使われていたものを
昨春、譲り受けた。
祖母は仙台に住んでいて、昨年の3月
長く暮らしていた家は壊れた。
私の父が幼少のころというから、
かれこれ60年近く。
3人の子どもらが巣立ち、祖父が亡くなってからも
祖母は変わらずこの家に住み続けた。
そこいら一面田んぼだらけで
長閑だった家の周りは、いつの間にだか賑やかに
隣にショッピングモールが立ち並ぶほどにまで、様変わりをしていたけれど
建設時には随分と家も揺れたし、かんかんごんごんやかましかったけれど、
それでも
祖母はその場所を守りたかったし、
いとおしく思っていたのだと、後に知る。
有難いことに、あの日祖母は外出中で無事だった。
全壊で、修復不可能とされた家は
家じゅうに歴史をつめこんだまま壊されて
更地となる。
せめて少しだけでもと、譲り受けてきたもののひとつがこの、
りんごちゃんのまな板なのである。
木のものは、洗ってすぐに拭かなけりゃあいけない。
そう母に口をすっぱくして言われても、
無精者の私はついつい、ついつい、が積み重なって
いつの間にか隅っこを黒くしてしまう。
あろうことか、このまな板だってしかり。
端っこの少々黒ずんでしまったそれをみて、はっとする。
私の記憶をたどるかぎり、
祖母の台所に昔々からあったこの小ぶりのまな板は
ここへ来るまでカビひとつなかった。
祖母はこれを、丁寧に使い続けてきたのである。
あのとき、持ち切れずに置いてきてしまった物物、なにもかもが
いっぺんにごみとなってしまった。
それらひとつひとつには、祖母の想い出がいかほどにつめこまれたものだったか。
大切なひとを亡くしたひと、
故郷へ帰れぬひと、
家を、大事なものを失くしたひと、
ひとひとひと。
ひとひとひとひと。
それぞれがそれぞれに
比べたりはできない。
以来、祖母は近くに住む息子夫婦の家に身を寄せている。
祖母の家のあったところは現在、
ぽっかりと更地になっている。
冬には雪がつもって、
今頃は草も生えているかもしれない。
かつて、我々孫たちが集まって書いたあほらしい絵をそこいらじゅうに張って
展覧会を催した壁も、
くるくる回った階段の手すりも、
正月に皆のお膳を並べた茶の間も、
神棚、だるま、こけし、庭木、
田んぼの畔を歩いて祖父と買いに行ったお菓子を食べたベランダも、
流行りものに目がない祖母の取り入れる健康グッズ、
ヨーグルトやヤクルトのたくさん入った冷蔵庫も、
何もかも今はなくて、
ただ、風が吹き抜けてゆく。
祖母はそこへ、あまり行きたがらないそうだ。
でも、きっと行きたい。
ぽんぽんちきの孫、わたしでさえ
胸のつぶれる思いがするというのに、
彼女はどんな思いで毎夜眠るのだろう、目を覚ますのだろう。
祖父の写真の前で手を合わせ、
おばあちゃんがさみしくないように守ってくださいというと、
祖父はかならず、
さとちゃんもさとちゃんのできることをしてあげてほしいよと
無言で、
静かに笑って、いう。
いっさいがっさい、すべて失った人も
それでも、生きてゆく。
そのほんのひと支えに、
生きているひとりひとり、わたし、
互いがなれたらばなとおもう。
そうして、生きていく。
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