
プランターに植えた絹さやを摘んで、たべた。
これからは小さいながらも庭ができたので、
野菜をたくさんつくろうとおもう。
たべる、
水をのむ、
息をすう。
ここにはなるたけ、
否定的な気持ちだとか、批判だとかは
かかないようにとあの日以来
直接的にさわらずにきたけれど。
いう、
原子力発電所、についてである。
これまでも、
その危険性を指摘する声はたくさんあった。
声高に叫べば叫ぶほど
煙たいものをみるように
しらんぷりしようとするひとの姿勢をたくさんみた。
だって電気は必要でしょう?
なんていとも軽々といったりする。
わたしはといえば、それに容易くひるんでいたし
口をひらくことに躊躇していた。
ふつふつと心に抱えながら、
なんにもしなかった、に等しい。
想定外、なんてものじゃないはずなのである。
見ないふりをしているうちに
とうとう、それは起きてしまった。
だれが悪い、だのと言い出せばきりがない。
責任のない人、なんてものはもはやいないようにもおもわれる。
度合いというものが確かにあろうがでも、
誰かを祭り上げて悪者、としたってなんの解決にもならない。
今も事故は進行中である。
深く傷つくのはいつだって、
大きいものではなくて小さなもの
つよいものよりもよわいもの。
事実、原発は人の手に負えていない。
人が自然を手なずけることは到底できない。
そのことを、もうすっぽりと、認めるときがきた。
この期に及んで、は
もうなしでしょう?
東海地震で危ぶまれる
浜岡原発をはじめ、
全国の原発を稼動しつづけるなら
それは
福島の被害を受けてもなにも変わらないのと同じなんじゃないかと
おもう。
同じことをくりかえすの、か?
それはみんなに問われている。
全知恵とチカラを注いで
この事故を収束させること、そう祈ること
はもちろんのこと。
同時に、
言い訳なしに脱原発へ舵をきること
それはできないことじゃない。
可能であることを説く人はたくさんいる。
もう、
耳はふさがない
みないふりもしない
くちだって閉じたりしない
だまされたりしない。
これ以上汚すのも、傷つけるのもたくさんなのだ。
そうおもって、
水をのみ、
雨をみつめ、
息をすって、
いる。
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