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  日々、ミカンのこと                 

satomi yamada

春と記憶 

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haru


小学生のころを、
私は、三陸の町で過ごした。

丁度いま、朝の連ドラで舞台になっている、町。
琥珀や北限の海女たちがポスターとなって
駅に貼られていた町。

娘にせがまれてそれを、一緒にみたんだけれど
その、さびれていくばかりだった懐かしい町を
画面のなかに見て、
なんだか正体のわからない、涙がでた。

あのころの小さな身体の中のこと、
その感覚の引き出しが掘り出されて、
なのか、
なんなのか正直、本当にわからない。

ただの懐かしさだけで、説明のつかない
なにか。


私は、小学生の頃、
2年に一度のクラス替えが死ぬほどいやだった。
なぜ、
仲の良いこの仲間たちと
春、という区切りで別れ別れにならなくてはならないのか、
だとしたら一体、
この濃密に積み上げてきた2年の歳月は何のためだったのか、
なぜ、
こんなにもすいている担任の先生とさいならして、
先生はほかの子どもたちとまた新しくはじめなくてはならんのか、
まるでその理由が、わからなかった。

そのむごさの意味が、必要性が、道理が、
わからなくて本当に
ただただ、次の春のやってくるのを
おそろしく、かなしくおもっていた。
のを
憶えている。

それはまた単純に
私がそれなりに愉しくやっていたからであって、
一方でその月日を苦々しく思い、
次のクラス替えを心待ちにしていた人も
あったのかもしらない。
のだけれども。

大人になると、
己の好き勝手でたいていのところ
区切りのタイミングをつけ、られることになる。
クラス替えなんてものはないし、
担任が変わることもない。
会社員の方々には、転勤だとか
(私の父もいわゆる転勤族で、私はそれで全国方々の町をてんてんと暮らした)
人事で部署を移動、なんてものもあるのだろうが
私はなにうえ風来坊のフリーランスであるので
思いのまんまに、それは自由である。

そんな折、ふと
誰かとお別れをしなくてはならないときが、くる。

愛想がつきて、もう顔もみたくもない
せいせいする別れなら気も楽なのであろうが
そういうわけではない相手と
しかしさまざまな事情でお別れしなくてはならぬとき
がある。

それはそれは悲しくてたまらない。
それはそれはさみしくて、
残念で哀しくてならない。
その手のひらを、放さなくてはならないのだ
と、知ったとき。
気がついたとき。

ふと、三陸の町で暮らした
あの頃の春のことを思い出した。

あの、今より小さな
今の娘ぐらいの身体のなかに、
小さくも、たしかな、心があって
目に見えるものがすべてだったその世界を
まっすぐに、みつめていたあの頃のことを、
思い出した。

春に、
かなしくてかなしくて泣いたこと。
なぜなんだろうかと、理解もできぬまんまに
しかし何の手立てもなく
ただ
月日にもくもくと押し出され
次へと
進められていったあの頃のこと。

さようならはかなしい。
かなしくて痛い。
痛くてくるしい。
さみしくて、さみしくて、きっとたまらないだろう。

だけれど
すすまなくてはいけない

のかなあ。


春の海をみながら、考えている。
海の水は、もうひゃっこくない。





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