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  日々、ミカンのこと                 

nalu

虫同志 

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kaki



ちいさなころの、記憶に
担任の幼稚園の先生に
「さとみちゃんは、泣き虫さんね」
といわれた場面がある。

情景というよりその言葉と響きが
今でも残り浮かぶ。

憧れと敬愛の対象であったその人に、
わがことのせいで少し困ったような気持ちのにじんでいるのを
目の前にみることは
小さくショッキングでもあり、
同時にああ、わたしは泣き虫なんだと
はじめて自覚したような気が今はする。

その当時住んでいたのは
三陸の北端にある土地だったため
冬は当然ながら寒く、
当時からひょろひょろと貧弱な体型をした私の身には
それがずいぶんと本気に寒かった。

毎週、たしか月曜日だかは
朝から体操らしきものの日で、
冬だというのに外の庭へ出て寒中のさなか、
薄着で(だったような気がするんだけどそのへんは定かでない)
その体操らしきものをおどらなくてはならない。

わたしはそれが、
ただでさえその動き一環を好いてはいなかったうえに
なぜこんなに寒い思いまでしてそれをおもてへ出てしなくちゃならんのか
まったく合点が行かず
さむくてさむくてしかたないし、
手なんか冷たいを通り越して痛いくらいで、
まっかで、
だから泣いていたのを覚えている。

何度か出掛けにだだをこねて、
例の体操が終わる頃合いに園に送ってもらい、
母の自転車の後ろから降りるときの
気まずい風景の記憶も少しある。


そのあとだったのかなあ、
先生にそういわれたのは。

同じクラスの男の子に
ハサミを隠され、
ようやくそれが発掘されたときに師が
「おとこのこは好きな子にいじわるしたくなるものなのよ」
と、だから大丈夫的なことで慰められた時も
ハサミを使えなかった不安さ不憫さ悔しさに加え
なにかとパンツをぬいでみんなにみせびらかす癖のあるこの男子に
なぜかわたしは好かれているのだとして、
それはまったくうれしくもなぐさめにもならず、
むしろかなしくて、たいへん失礼だが、泣いた。

ほかにもなんだったけな、忘れてしまったけれど
何かと泣いていたのだろうなとおもう。

泣けば、世界がその間涙でみえなくなる。
だから泣いたのかもしれないし、
それでも
泣き終えたとき、
なにも世界は変わっていないことの繰り返しの中で
私はだんだん泣かなくなったのかもしれない。

今でもまあ、
泣くことはある。
けれどそれは圧倒的に良いときのほうで、
うれしかったり、
胸がいっぱいになったり、
安堵したときなどが多い。
それはきっと喜ばしいことだ

悔しいとき、
かなしいとき、
さむいとき、
私はいつのまにか歯を食いしばって
なんとかする方法を、考える。
我慢も昔ほどしない。

夜中とか
ひとりでいる夕方とか、
ごくときどき
おーおー声をあげて泣くことがある。

ぺたんとすわって、
おーおーおーおー

そのときの気持ちはよく思い出せないけれど
たしか
無力感とか、
ぽっかりした穴ぼこに落ち込んだように
泣いて、
ねむって、また
掃除をしたり、
ごはんをつくったり、
空を見上げたりして、生きている。

小さな頃の私と今の私は、
一見まったく別物のようで
当然ながら同じ線の上を歩く同士なのだ。
だから
さらばは、できない。

ともに生きている
生きてゆくのだ。









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