
拝啓
めがさめて、
雨がふっていると
その雨音ですっぽりと水につつまれているようで
気持がいい。
もういちど眠れたらものすごくいいんだけれど
むすめのお弁当をつくらなあかんので
もう5ふん、もう10ふんだけねむって、
おきる。
さて、
前回辺野古へおもむいたとき
ゲート前のテントで日々あつまってくるひとたちは
まる一日休みなく激しい抗議行動をしているわけではなくて
おしゃべりをしたり、
交代で誰かが前に出て自己紹介がてら話をしたり、
そのことばひとつに胸をあつくしたり、
暑い中、互いにねぎらい合って
差し入れのお菓子や果物をいただいたり、
みなで唄をうたったり、していた。
出掛けるまえ、すこし緊張さえしていたわたしの
率直な感想をいえば
ああ、ここにきているひとたちは
ただ
海の壊れてゆくのを、
いきものたちの失われてゆくのを、
人の手が宝を穢してゆくのを、
他人事とはとうてい思えなくて
自分のことをまずそっちのけで、
というより
自分事として
いてもたってもいられないからきている
のだなと感じた。
これはどうか知っていてほしいことなのだけれども
それはいわゆる「過激」とは、まったく違うところにある。
そんなひとたちが、
前線にたって抗議の声をあげるだとか
ときに非暴力でただただ抵抗するだとか
それに対し、
目の前で次々に繰り広げられるあまりの
非人道さをまのあたりにするだとか
いうことは
正直にいってとても精神的にはつらい。
くるしくて、かなしくて、くやしくて、
でもどうにもできなくて
はがゆい。
でも、だまって見過ごすことがどうしてもできない
ひとたちは
唄をうたう。
その景色をみたとき、
一緒になって声をあわせてうたうとき、
ああ、唄は不思議なちからをもっているんだなと
あらためておもう。
ことばでうまくいえないけれど、
矢印同士がぶつかりあうのでない
なにか、
目に見えないちから。
途方にくれるようなことも
根底から包み込んで、動かしてしまうような。
沖縄にはたくさんの、優れて、豊かな唄があります。
それにもきっとわけがあるのではとおもうのです。
そんななか、私はうたをうたっているんです、とは
ちょっとなかなか言えず、
おこがましいような気がして
じっとしていたのだけれども、
ひょいと背中を押してくれる人があって、
滞在の終わるころにふと、みなの前で
「丘」をうたわせていただいた。
「丘」は、その歌詞に具体的な名前はでてこないけれど
数年前に、
辺野古をおもってつくった唄。
そのとき
それを聴いてくだすった方のご縁から、
辺野古の今を映像にしたドキュメンタリー映画の中で
急遽、この唄を使っていただくことになりました。
森の映画社という
北海道の映像チームが、
辺野古でカメラを回し続けて
一本にまとめた作品です。
いよいよ公開となる初日二日、
監督の舞台挨拶とともに、
ミニライブをさせていただきます。
沖縄・桜坂劇場 → HP
10月25日(土) 26日(日)
場所:桜坂劇場
10:30~の上映後、12:00ころ~舞台挨拶とミニライブがあります。
私も完成を観るのが愉しみです。
どうぞご覧になってみてください。
わたしたちの拙い唄が
わずかでもやわらかく、
ことをうごかしてゆきますように
ふたたび辺野古へ、いってきます。
敬具
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