日々、ミカンのこと                 

satomi yamada

野性 

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この年のはじまりに掲げたテーマは
野性
であった。

野生
とおもった娘はそれを聞くなりすかさず、
それじゃあまず服を着るのと家に住むのをおやめなさい
といったけれど
それは、野生。

わたしのいうのは
野性
のほうである。

その究極が彼女のいうかたち
なのかもしれないけれど
そう
ひとっとびにはゆかない。

さて
昨年末に携帯電話を手放したその
もっともな理由をあげるとするなら、それは
テレパシーがつかえるようになる気がする
である。
こんなことをいうといよいよ
頭がおかしくなってきたのかしら

心配する方もあるかもしらないけれど、
いいえ
実のところそれは
わずかずつではあるけれど、
そのようになりつつある。

四国に住む親友姉妹にそろって
この春赤ちゃんが誕生することになり、
いまかいまかと
その声を待っていたのだけれど
あるとき妙にもう生まれるんじゃないか
という気がしてお祝いを送ったら
翌日、生まれたと知らせがあった
とか。
それは月をまたいで
姉妹それぞれに。

子の名前が妙に
「なんとか太郎」
なのじゃないかしらとおもえば、
凛太郎
だという、とか。

妹のほうからはそれ以来、
エスパー里美
とよばれている。

ほかにも
絵にかいたような
うそでしょ、
というような出来事がぽつぽつあって、
ああこれはテレパシイだね
とおもっている。

つまりこれは、
野性のアンテナがすこしずつ
元に戻りつつあるからゆえ
だとわたしはおもう。

おそらく
太古の人間はもっと、もっと、
そういう感覚が研ぎ澄まされていたのにちがいない。

植物や風や、波や、月や星々の動きや、
あるいはもっと理屈ではないものと
交感を、やりとりを、
し合っていたのではないか、
また人間もそのひとつであったのではないかしら、と。

そういうのは
私の理想だ。

むろんわたしは
携帯電話やさまざまの便利ツールを否定したいわけでない。
それらを面白い、愉しい、
とおもうひとは素直にその感覚に従うのがよいとおもう。

わたしの場合も
おもしろい、とおもうもの
恰好のいい、
うつくしい、
と興味をそそられるものに向かって
素直である
というだけである。

なんであろうとそれは
一個人一個人の
おおいなる自由だ、と
おもう。

わたしは人間としてこの世に
いま、生まれて生きているけれど
その
人間
というものも
木や、風や、雲や虫や、
けものや鳥や、虹や雨や海、
花や草と同じ
ひとつであるとおもっている。

いつからなのか
ずいぶんと偉ぶって
はみだしてしまったようにみえる今の姿から
すとんと
一匹のいきものに
この生涯をとおしてかえってゆきたい
そうありたいとおもう。

このごろ
もしかするともっとずっと前から
わたしの真ん中にあるのは
このことであるようにおもう。




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