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  日々、ミカンのこと                 

nalu

紫陽花 

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正直にいうと
いつも
いつもわらってるわけではなくて
ときに唐突に
とーんと
あなっぼこに落ち込んでいたりもする。

え?
ここに穴あいてましたっけ
というくらい
不意打ちにくる。

ついこの頃は
近隣から
草刈り機や枝切ばさみの音がきこえてくると
そわそわして
しかしだからといってなんにもできなくて
次々と
毎日のように
当たり前みたいに切られていく
たとえば
紫陽花の青々した葉枝を
垣根のひかる葉枝を
ちいさな草花をめにするたびに
気分が塞いで
しょうがなかった。

なんにもできない
のか
なにかできるのか
こんなことにいちいち心を曇らすことを
やめたらいいのか
わからぬ。

悶々としゃがみこむわたしに
植物は
わたしは恨んだりしない

清々しくいったりする。

彼らは今、いま、を生きているから
過ぎたことにどうこう
おもったりはしない。

ただただ
人間のすることを
されるがままに
受け入れて
いる。

そこに
悲しみも怒りも
ないのだと訊いた。

だとしても、わたしはかなしい。
わたしは植物でないから
人間だから
かなしい
わたしたち
人間のすることが
かなしい

紫陽花は花だけがうつくしいのじゃない
葉っぱが旺盛にあるから
花が咲く
その葉も枝もうつくしい

垣根はなにも
人間のためばかりに生きているのじゃない
木は木のいのちを
いきている
ちょっとのびたり
はみ出たりしちゃいけない?
そこに
生きているのに

窓から見上げる
そこに
つい前の前の季節まであった
大きな木々が今はすっかりないことを
いまものこるその気配を想像してみることを
それでももう2度とあのようには戻らないことを
かなしくおもう。

ともに生きていたのに
いつもずっと
ともにあってくれているのに
その手を放すどころか
いとも簡単に
切り刻んでないものにして

にんげんはなんて
なんていう生き物だろか。

ただただかなしく、おもう。
無力だからか
無力なのか
いや、
きみたちは手足があるだろう
その動く
身体があるだろう
そのくち
言葉があるだろう

だからきみたちは
きみは
悲しんでばかりいないで
さあ
その手足で、いま
できることをしたらいい

そう
いわれているような気がする。

人間がえらいんじゃない
草だって
虫だって
鳥だって
水だって
なんだっておなじように
おなじように
生きている。

せめて
そのいのちに
話しかける
くらいのことを
ねがう


ねえねえ
おじさん
おばさん
植物は敵じゃない
植物は
ずっとずっと
人間に
与え続けている
こちらがどんなに勝手をしても
だまって
木の実を
新芽を
葉枝を
木陰を
差し出し続けている

そのことを
わすれるのは
かなしい

この
かなしさをどんなふうにかかえて
いきていこうかなと

よくおもう。


わらって
潔く
清々しく
伸びやかに
ありたい
そうおもう

そのために
いま
なにをしているかな
と。
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