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  日々、ミカンのこと                 

satomi yamada

冬至 

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わたしが
わたしたちが
どうして
にんげんとなったのか
なぜ
にんげんはこのせかいにうまれてきたのか
ときどき
かんがえる

いったいなんであるのか
うまれてきてよかったのか
また
ここへ
なにをしにやってきたのだろうか、と。

かつて
ひかりのなかにいたころ
わたしたちはひとりひとり
なにか
なすべきことを
そのなかにたずさえて
ここへ
やってきた
のではなかったか

それをはっきりとおもいだす
ことは
できるだろうか、と。

もし
としつきとせいちょうのなかで
いつのまにかに
それを
くもらせ
まぎらせてしまっているとしたら

そのこえが
みみにとどかぬほど
わたしのおくへおくへ
しまいこまれてしまって
いるのだとしたら

このわたし
ひとりひとりの
ふかくふかくおくそこには
いまでも
あかあかともえる
火のようなもの
しずかにひかる
石のようなもの
このちじょうにまくためにたずさえてきた
種のようなものが
そこに
ねむっているだろう
そこに
すわっているだろう
いまかいまかとひそやかに
そこに
まっているだろう

だから
わたし、
わたしたちは
いちど
ふかいわたしのなかへもぐりこみ
または
かさねられたいくつものおおいをていねいにとりはらい
または
ちんもくのなかに
みみをとぎすませ

まっさらのとき
まっさらのときに
なにがかかれていたのかを
もういちど
つかむ

つかみとる

この身のちゅうしんから
はるかうちゅうのぜんたいから
きこえてくるこえに
めをひらく

そのときひとは
このせかいすべてのものたちと
ひとつであることを
おもいだす

それが
どんなにか
自由であることか
それがどんなにか
へいわであるか
それがどんなにか
こうふくなことであるか
いかに
まもられているか、を
しる
そうして

ひとが
わたしが
わたしたちが
このせかいに
なしてゆくことは
きっとすべて

よいことであるはずだと
わたしはしんじる

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