
りゅうりゅう
と、その龍はこたえる。
お水をたくさんのみなさい
と、いうことなのでその日から
わたしはつとめて水を飲むことにしている。
朝、沸かして水筒につめるのも
これまで永らくお茶であったが、
お白湯。
そういえば、娘は
日本の美味しいお水がのみたい
と云ってかえってきた。
ちょうど六甲山の湧水を沢山汲んできたばかり
だったのでそれを、
ごくごくのんだ。
ごくごくごくごくのんで
あっという間に空にした。
残念ながら家の水道水は浄水器を通しても
さほどおいしくない。
日本の、美味しいお水がのみたいなあ
と云う娘に
なに、水を買うような習慣美学はうちにはありません、と
ケチなことを云ったものだ。
娘は白湯をのんでいる。
水の美味しい処へ出かけると、
わたしが
この焙じ茶美味しいよ
といってすすめてもかまわず
コップの水をごくごくのんでいる。
そういうことだったか
先日、奈良からお客さまがあった。
彼女の水筒の中は水だった。
このひとはお水をごくごくのんでいるな
とおもったら、
ふとお風呂上がりにある方の
インスタライブの話をしてくれて、
夜、ふたりでそれを観た。
その方が云う
どの人にもたいてい一匹
龍がいる
共にいる
だから
その子に名前をつけてよんでみてください
または
その龍自ら名乗ってくれたりします
と。
そして
今、せかい中に満ちる沢山の龍たちのする
お役割、お仕事の助けとなるように
つとめてお水をのんでください
と。
それをきいて
ああ、だからこの子たち
わたしの周りの若き
感性、アンテナの優れた彼女たちは
やたらとお水をのんでいたのか、と。
そして
わたしも以来、つとめてお水
この頃は寒いので正しくは白湯
をのんでいる。
すなおなものである
いや、鵜呑みしてそうするではなく
それが、なんだか腑に落ちたからである
そして
そうしてみるとそれが気持ちいいなと感じる。
そういえばかつては
白湯ばかりのんでいたこともあった。
出会う人やともにするその習慣によって
己の毎日、その当たり前も変化し固定化し
いつの間にかそのことに
疑問も抱かなくなるものだ。
無論
お茶が、悪いわけでない。
友人いはく
お茶や珈琲はお愉しみみたいなもの
なるほどなるほど。
普段、わたしはどなたかの発信や映像、
SNSの類いもほとんど観ずに暮らしている。
そんな隙間がないからともいえるが
まあ
自らと、そのまわりの
海や山や木々、風、身体感覚そのものや
それらとやりとり
するだけで日々は完結しているともいえる。
けれど時折、
こんなふうにして外からの風が舞いこむ。
その
必要なとき、必要なことがやってくる
そういうことの有り難さと
おもしろさ、このせかいのおかしみを
感じている。
そういえば
奈良からの友人はこの年夏至の頃
奈良を訪れたときに再会、お世話になり、
奈良の奥、
奥熊野といわれるあたりを共にめぐったのであった。
そのとき訪れたのも
まさに
龍ばかりの旅
だったなや。
日々、
わたしたちはひとつだ
なにもかもとびこえ、
なにもかもひとつだ
冬至へ向け
佳き日々、一日一日を
最大限あるいてゆけますように
つと見上げれば白い月
沈みゆく今日の日のひかり、
空には悠々とたゆたう
龍たちが居る
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